読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

森羅万象と夜のしじま

読書、散歩、音楽など。

カフェイン断ち途中経過

独白

カフェイン断ちを続けている。
常習していた嗜好品を断ち切ることがこんなに苦しいとは。

ハーブティーなどではとても埋めきれない心の隙間は、食欲の増大を招いている。カフェインがなく食事量が増えたことで眠気もひどい。酒量も若干増えたかも知れない。

良かったことはなんだろう。中途覚醒がなくなり、眠りが深く長くなったことだろうか。栄養状態が良くなり(太った)、白髪も減った。

良質の睡眠より上位の健康法はないと思うので、苦しいけどまだ続けてみよう。

 

嫌な女

読書日記

桂望実著の『嫌な女』を図書館から借りて暇つぶしに読んでみた。テレビドラマになったほどの人気作品、つまり通俗的な作品ではある。あまり深読みしても無意味かも知れないが、いろいろと感想やら疑問が涌く。

破天荒な悪女に振り回される語り部の女弁護士や周囲の人たち。読者はこの悪女こそ「嫌な女」と捉えるのだろうか。しかし、無味乾燥などこか冷めた感じのする女弁護士こそ私からすれば嫌な女であった。

後半になるとこの女弁護士が何とも魅力的な人物に変化する。悪女は高齢になろうとも悪女であり続け、人を惑わす。

作者の言う「嫌な女」とは誰のことか、知りたいものである。読者の胸の内にあるという回答であったら少し残念である。

 

カルトの業

独白

知人がSNSをはじめた。
写真は、彼女の子どもの頃の家族写真だった。

一家を挙げてカルト宗教にはまり、彼女だけが脱会した。それ以来、彼女は家族を失った。何を思ってその写真を使ったのだろう。世間で言う真っ当な人生の代償は、家族の絆だった。

人を救う宗教が組織となり、その勢力維持拡大が自己目的化する。その過程でメンバーが互いに苦しみを与える。業が深いなどと月並みな感想しか抱けない自分の感性にいささかがっかりする。

 

 

 

 

 

コーヒーとウオッカ

独白

雪の日に

都心で雪がちらついた日、私は外回りに奔走していた。
朝から出ずっぱりで、終えたのは15時過ぎ。

歩き回っていたのもかかわらず、全身が冷えきってしまった。住宅街の中に小さな喫茶店があり、思わず駆け込んだ。そこはコーヒーしかおいていないガンコなお店だった。カフェイン断ちをしているが、ここは仕方ない。

コーヒーを注文し、手を温める。

同時に注文したウオッカを一気にあおる。
これで人心地着いた。

 

旧友からの電話

その後、三時間ほど時間をつぶし、取引先から契約をいただいて帰宅した。23時過ぎだったろうか。珍しく旧友から電話があった。

彼はえらく陽気だった。学生時代の思い出を饒舌に語る。いささか酒が過ぎているようだった。今は不遇であるということらしい。愚痴が入り、ほどなく電話がきれた。

これが最後の電話にならないことを祈らずにはいられない。

 

 

ハーブティーはイシキタカイ系?

独白

カフェイン断ち!

カフェインまみれの生活を見直している。不眠、中途覚醒を少しでも減らしたいのだ。嗜好品のために生活の質が下がるのは本末転倒である。

私はお茶の類、チョコレート、コーラが大好きである。お茶の豊潤な香りと味蕾をくすぐる繊細な味に目がない。疲れたときはチョコレートが糖分とカフェインで体を元気にしてくれる。コーラに至っては、これに炭酸まで加わり、さらにパワーアップ。

などと浅はかにも考えていた。

しかし不眠・中途覚醒だけでなくメンタルにも、消化器にも、循環器にも地味に悪影響をもたらすと知って、カフェイン断ちを決めた。

課題は、次の嗜好品を探すこと。

そして、離脱症状に耐えること。収縮していた脳血管が拡がって痛い。

高くてまずいハーブティー

これまでハーブティーはイシキタカイ系の人たち御用達の品で、味ではお茶、コーヒーにはるかに劣るのに、何故か愛飲されているというイメージだった。事実、ハーブは医学の発展とともに煮出して飲む習慣は廃れた。嗜好品としても紅茶やコーヒーが安価に手に入るようになったことも大きい。

しかしカフェインを含まず、代替医療的ながら健康に寄与するとなると、注目せざるを得ない。

問題は、「高く」、「まずい」ことではないかと思っている。

香りを楽しむのであれば、アロマオイルや香水で事足りる。香り付きのお湯がお茶の代替品になるのかどうか、自分でも自信がない。おまけに割高である。

とはいえ、健康には替えられないので、トライしてみよう。

割高でも良品を購入し、ちゃんと煎れれば美味しいのかもしれないのだから。

 

 

 

 

 

作家志望の人

独白

大学時代の同期が作家を目指している。

秀麗な文体に見るべきところがあるが、唯我独尊、「俺様文学」の傾向があって、なかなか評価されない。

本人は古今東西の文学に関する学識があり、自分こそが文学の正統なる後継者と言ってはばからないから、世間の評価など意に介さず、創作に夢中になっている。

しかし文学は時代精神の反映あってこそ。古代の神話は民族の物語、詩は知識人たちの共通の美意識や思想を表す。国民国家の成立にあたっては、各国の言語による国民の物語が求められた。

これらの文脈のないところに、いくら過去の文学的遺産である修辞や形式を用いて小説を書いても、それは仏の入っていない仏壇に過ぎない、と私は思う。世間が、出版社が、評論家が相手にしない。見ていて、友人として痛ましい。

などと指摘すれば、たちまち友情にヒビが入ることは想像に難くない。「ならばお前も書いてみろ」と言われてお終いであろう。あるいは単なる愛書家の私には及びもつかない文学の境地があって、時代を超えた普遍性がそこにはあるのかも知れない。

いずれにせよ、人生は有限であり、結果が全てだ。黙って見守るのも友情のひとつの形、処世術のひとつ。彼の成功を祈ることにしよう。

 

 

 

 

 

 

未来を信じる力

そして未来は、いずれにしろ過去にまさる

上は、ハインラインの小説『夏への扉』の一節だったと思う。心に刻もう。

長引く不景気や少子化・高齢化、過労といった問題を引き合いに、昭和を懐かしむ声を聞く。大勢の人が未来を信じて、希望を持っていた時代だったという。

高校時代まで昭和を過ごした私としては、これを首肯するにしても、総じて選択肢が少なく、画一的な世に息苦しさを感じていたのも事実だ。

科学は日進月歩。さらに世の中のあり方も人に優しくなった。こうした中、何故か日本人は未来を信じる力を失っていった。希望とは、世の中や国が与えてくれるものなのだろうか。

これは自分自身への問いでもある。