火への憧憬
秋も深まり、朝晩の冷え込みがきびしくなってきた。はやくも暖房器具のお世話になったのだから、軟弱のそしりは免れまい。
エアコンは空気が乾燥するから利用は最低限となる。何よりも火の気がないのが不満である。オイルヒーターは冬の陽だまりのような温もりがあって好きなのだが、こちらは電気代が余りにもたかくついたので、泣くなく手放した。
石油ファンヒーターは灯油の購入や持ち運び、保管が厄介なので利用せず納戸を占拠している。で、結局のところガスファンヒーターを主に利用することになった。
理想を言えば、薪ストーブでたいして広くもない家全体を温めたいが、薪の確保やら灰の処分などの問題がある。煙道火災となれば家が全焼することもある。ならば、せめて書斎に火鉢でも置きたいが、これも火事の懸念があり、断念している。
理想を言えば、暖炉を前にして安楽椅子にもたれかかり読書三昧の日々を過ごしたいのだが、そういう経済状況からは程遠い。
金持ちの友人が言うには、金があるのは暖房が充実しているようなものとのこと。貧乏人は火の気がない状態だという。最初のうちは、暖かさに感謝するがやがれそれが当たり前となってしまい、ありがたみを忘れてしまうという。
なんとも人間とは業の深い、欲深い生き物だと思う。
宮部みゆき『龍は眠る』
超能力なる非日常を提示するも、すぐにそれを否定する論理を持ち出して、読者もまた語り部と共に迷うところから引き込まれた。超越した能力を持つ者、障害を持つ者、凡人の対比と交流が密なところが本書の魅力であり、ロングセラーとなった所以か。
一方で悪役の人物造形の平坦さ、犯行動機の弱さなどは、数少ない弱点に思えた。犯人の計画はリスクが大きく、複雑だった。そして得られるものがそれほど魅力的には書かれていない。愛する人と結ばれず、断腸の思いで意に沿わぬ人と結婚した犯人の無念さがあまり描かれておらず、行間からも伝わってこない。
それにしてもこの人の文章はうまい。いわゆる文学における名文、美文のたぐいではない、ストーリーを語る筆の運びの巧みさ、描写と会話とのバランス、文章を意識させず必要最低限の表現で映像をみせるかのような描写がすばらしい。
娯楽小説、推理小説として人に勧めたい作品。
破滅型私小説
明治後半から終戦前後まで私小説が一世を風靡した。空想や理想をストーリーに投影するロマン主義を否定し、自然主義の極北を行く小説群と言うべきだろうか。作者の内心を暴露するような内容は、一面で、当時の世相、我が国の経済状況を反映し陰惨な内容となることが多い。
戦後になり、小林秀雄が私小説の死を宣告したり、文壇の趨勢が私小説批判に傾き、こうした作品は減ったという。読者も日常の延長線上にある内容を、文学で追体験するのを望まなかったのかも知れない。希望の時代でもあったのだ。
破滅型私小説の代表的作家である葛西善蔵の『哀しき父』、『子をつれて』などは、しかし、平成に入り長引く不況と格差の拡大を前に、放縦の果てのリアルな貧困の描写が再び説得力をもって読者に迫ってくる。無論、歓迎されるかどうかは不明であるが、今世紀に入って私小説を書く作家が相次いで登場したのも事実。
それは文学作品を単独では、評価しきれない時代背景を伴った現象であるように思われる。
人が倒れても笑う
「こいつ、カエルみてぇ〜。笑える」
などと心筋梗塞で倒れた同僚に言うべきではない。太っていた同僚が倒れると、競りでた腹がたるみ、カエルのように見えたのだろうか。フロアの誰もが笑い、救急車を呼ぼうとしなかった。我に返って救急車を呼び、同僚は一命を取り留めた。そして、彼はほどなく退職した。
三十前後の頃、ブラック企業に勤めていた。当時はそれが当たり前で、どこに行ってもそれは変わらないように思われたので、私も同僚も我慢して働いてきた。大卒文系男子など行き場のない時代でもあった。
早朝から深夜までの業務。土日はせめて定時にあがろうなどという職場の空気。内外に提出する書類の期日が毎日。指揮命令系統がぐちゃちゃで社長や上司、他部署から命令がひっきりなしだった。それでも会社は成長したし給料も若干あがった。
だからそれは良い。私も勉強になった。
人として許せないことがあるとしたら、冒頭の話。
こうした会社がなくなることを願う。自分のためだけでなく、自分の子や孫のためにも。
読書の日々
先月から取り憑かれたように本を読んでいる。心身ともに疲れているので、あまり頭を使わない軽い本ばかり。以下はそのタイトルと簡単な感想など。
不遇な無職女性が学校図書館で働く物語。本を通じて生徒や関係者にスポットライトを当てている。人間がよく描かれているなあという感想。予定調和を裏切る終わり方が一抹の不安を与えかえって心に残る作品となった。
詩人でもある著者が人の行き着く先をみつめ淡々と描く作品。深く静かな感動に包まれた。映画「おくりびと」で有名になったというが、本作品との関連性は、職業設定のみで別モノと言える。家計を救う、具体的には乳飲み子のミルク代にも事欠く生活から脱するために葬儀会社に勤務した著者であるが、奥さんから「穢らわしい」と言われ夫婦生活を断られ、親族からも絶縁される。人が死ぬという当たり前の営為から目を反らし続ける中、納棺夫は淡々と仕事をしていく。第三章は、親鸞を中心とした信仰の世界の論考となっていて、これもまた興味深い。
・帚木 蓬生(ははきぎ ほうせい) 風花病棟
いわゆる美文、名文を狙わずに、理路整然と分かりやすくきれいな言葉を駆使して、医療現場を描いていた。内容そのものは、やや平凡ながら、まっとうな日本語に触れて脳が喜んだ。
表現が現代と異なりとっつきにくかった。漫画版で読んだものと内容は、あまり変わらず。文字の方が情報量が多く、登場人物の命の軽さ、軍隊が労働者ではなく資本の味方となったことの衝撃などがうまく描かれていた。未来に対する漠然とした期待を示して作品が終わった。この後の歴史を知る者として、慄然とする。
散歩の作家、永井荷風の代表作。空襲で焼け野原となる前の東京、花街玉の井の描写が秀逸だった。ある程度成功した作家と下町の私娼との束の間の交流とその終わり、儚さを見事に描ききった秀作であった。
私も読書ばかりせず、散歩でもして体力を回復させねば。
すべてに退屈した男がいきついた快楽は、殺人であった。誰でもふと抱く妄想を乱歩は、ふかく展開させ、狂気の世界へ我々を導く。すべて筋が通っているところが恐ろしい。狂気が佳境にはいったところで種明かしとなり、我々は日常、退屈な世界へ引き戻される。
・その他 レシピ本、家事の実用書、明治大正文学を適当につまみ食いするも、読了にはいたらず。
読書も良いが、夜や休日など部屋にこもりきりでは、体力が落ちる。音楽を聴きながら散歩も日課としたい。歩こう、外に出ようという気力がでてきたのは、読書の、いや永井荷風のおかげかも知れない。うつの癒しは、読書、睡眠、音楽。やや回復したら美食と散歩、温泉となる。