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森羅万象と夜のしじま

読書、散歩、音楽など。

作家志望の人

大学時代の同期が作家を目指している。

秀麗な文体に見るべきところがあるが、唯我独尊、「俺様文学」の傾向があって、なかなか評価されない。

本人は古今東西の文学に関する学識があり、自分こそが文学の正統なる後継者と言ってはばからないから、世間の評価など意に介さず、創作に夢中になっている。

しかし文学は時代精神の反映あってこそ。古代の神話は民族の物語、詩は知識人たちの共通の美意識や思想を表す。国民国家の成立にあたっては、各国の言語による国民の物語が求められた。

これらの文脈のないところに、いくら過去の文学的遺産である修辞や形式を用いて小説を書いても、それは仏の入っていない仏壇に過ぎない、と私は思う。世間が、出版社が、評論家が相手にしない。見ていて、友人として痛ましい。

などと指摘すれば、たちまち友情にヒビが入ることは想像に難くない。「ならばお前も書いてみろ」と言われてお終いであろう。あるいは単なる愛書家の私には及びもつかない文学の境地があって、時代を超えた普遍性がそこにはあるのかも知れない。

いずれにせよ、人生は有限であり、結果が全てだ。黙って見守るのも友情のひとつの形、処世術のひとつ。彼の成功を祈ることにしよう。

 

 

 

 

 

 

未来を信じる力

そして未来は、いずれにしろ過去にまさる

上は、ハインラインの小説『夏への扉』の一節だったと思う。心に刻もう。

長引く不景気や少子化・高齢化、過労といった問題を引き合いに、昭和を懐かしむ声を聞く。大勢の人が未来を信じて、希望を持っていた時代だったという。

高校時代まで昭和を過ごした私としては、これを首肯するにしても、総じて選択肢が少なく、画一的な世に息苦しさを感じていたのも事実だ。

科学は日進月歩。さらに世の中のあり方も人に優しくなった。こうした中、何故か日本人は未来を信じる力を失っていった。希望とは、世の中や国が与えてくれるものなのだろうか。

これは自分自身への問いでもある。

 

 

 

 

火への憧憬

秋も深まり、朝晩の冷え込みがきびしくなってきた。はやくも暖房器具のお世話になったのだから、軟弱のそしりは免れまい。

エアコンは空気が乾燥するから利用は最低限となる。何よりも火の気がないのが不満である。オイルヒーターは冬の陽だまりのような温もりがあって好きなのだが、こちらは電気代が余りにもたかくついたので、泣くなく手放した。

石油ファンヒーターは灯油の購入や持ち運び、保管が厄介なので利用せず納戸を占拠している。で、結局のところガスファンヒーターを主に利用することになった。

理想を言えば、薪ストーブでたいして広くもない家全体を温めたいが、薪の確保やら灰の処分などの問題がある。煙道火災となれば家が全焼することもある。ならば、せめて書斎に火鉢でも置きたいが、これも火事の懸念があり、断念している。

理想を言えば、暖炉を前にして安楽椅子にもたれかかり読書三昧の日々を過ごしたいのだが、そういう経済状況からは程遠い。

金持ちの友人が言うには、金があるのは暖房が充実しているようなものとのこと。貧乏人は火の気がない状態だという。最初のうちは、暖かさに感謝するがやがれそれが当たり前となってしまい、ありがたみを忘れてしまうという。

なんとも人間とは業の深い、欲深い生き物だと思う。

 

 

 

 

 

 

宮部みゆき『龍は眠る』

超能力なる非日常を提示するも、すぐにそれを否定する論理を持ち出して、読者もまた語り部と共に迷うところから引き込まれた。超越した能力を持つ者、障害を持つ者、凡人の対比と交流が密なところが本書の魅力であり、ロングセラーとなった所以か。

一方で悪役の人物造形の平坦さ、犯行動機の弱さなどは、数少ない弱点に思えた。犯人の計画はリスクが大きく、複雑だった。そして得られるものがそれほど魅力的には書かれていない。愛する人と結ばれず、断腸の思いで意に沿わぬ人と結婚した犯人の無念さがあまり描かれておらず、行間からも伝わってこない。

それにしてもこの人の文章はうまい。いわゆる文学における名文、美文のたぐいではない、ストーリーを語る筆の運びの巧みさ、描写と会話とのバランス、文章を意識させず必要最低限の表現で映像をみせるかのような描写がすばらしい。

娯楽小説、推理小説として人に勧めたい作品。

 

 

破滅型私小説

明治後半から終戦前後まで私小説が一世を風靡した。空想や理想をストーリーに投影するロマン主義を否定し、自然主義の極北を行く小説群と言うべきだろうか。作者の内心を暴露するような内容は、一面で、当時の世相、我が国の経済状況を反映し陰惨な内容となることが多い。

戦後になり、小林秀雄私小説の死を宣告したり、文壇の趨勢が私小説批判に傾き、こうした作品は減ったという。読者も日常の延長線上にある内容を、文学で追体験するのを望まなかったのかも知れない。希望の時代でもあったのだ。

破滅型私小説の代表的作家である葛西善蔵の『哀しき父』、『子をつれて』などは、しかし、平成に入り長引く不況と格差の拡大を前に、放縦の果てのリアルな貧困の描写が再び説得力をもって読者に迫ってくる。無論、歓迎されるかどうかは不明であるが、今世紀に入って私小説を書く作家が相次いで登場したのも事実。

それは文学作品を単独では、評価しきれない時代背景を伴った現象であるように思われる。

 

 

人が倒れても笑う

「こいつ、カエルみてぇ〜。笑える」

などと心筋梗塞で倒れた同僚に言うべきではない。太っていた同僚が倒れると、競りでた腹がたるみ、カエルのように見えたのだろうか。フロアの誰もが笑い、救急車を呼ぼうとしなかった。我に返って救急車を呼び、同僚は一命を取り留めた。そして、彼はほどなく退職した。

 

三十前後の頃、ブラック企業に勤めていた。当時はそれが当たり前で、どこに行ってもそれは変わらないように思われたので、私も同僚も我慢して働いてきた。大卒文系男子など行き場のない時代でもあった。

早朝から深夜までの業務。土日はせめて定時にあがろうなどという職場の空気。内外に提出する書類の期日が毎日。指揮命令系統がぐちゃちゃで社長や上司、他部署から命令がひっきりなしだった。それでも会社は成長したし給料も若干あがった。

 

だからそれは良い。私も勉強になった。

人として許せないことがあるとしたら、冒頭の話。

 

こうした会社がなくなることを願う。自分のためだけでなく、自分の子や孫のためにも。

 

 

 

 

秋の夕餉

今夜は雨が降り、この秋、はじめて涼しさではなく寒さを本格的に感じた。

帰宅して風呂を沸かし、子ども入浴。他愛もない話をしておしまい。

夕食は質素ながら暖かく、美味であった。贅沢を言えば切りがないが、いまこの瞬間は幸せだと言える。